
プレスリリース
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終戦80周年記念特別企画
藤田嗣治 戦争と芸術のはざまで
-戦場、銃後の風景、日常を描く-
軽井沢安東美術館(長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢東43番地10)では、2025年7月17日(木)から9月28日(日)まで終戦80周年を記念した特別企画「藤田嗣治 戦争と芸術のはざまで -戦場、銃後の風景、日常を描く-」を開催いたします。本展では、1938年に従軍画家に指名された藤田嗣治が描いた戦争画をはじめ、銃後の風景や日常の様子を題材とした作品もご覧いただきます。藤田は従軍画家としての任務を果たすなかで、画家として成長し続けようとしていました。藤田が残した多くの言葉を手がかりに、それぞれの作品に込められた画家としての志を探ります。
《九江 航空隊 整備》 1940年 油彩・キャンバス
© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 B0909
展覧会概要
第二次世界大戦下においては、画家が戦地に赴いて取材をする傍ら、戦場や兵士の様子、現地の風景、そして銃後の生活などを描いた戦争記録画(以下、戦争画と表記)が数多く制作されました。制作したのは、戦意高揚と軍の宣伝を目的に指名を受けた一流の画家たちでした。彼らは従軍画家と呼ばれ、1938年、藤田もこのメンバーに加わりました。しかし、戦後、彼らを待っていたのは、画家仲間からの厳しい批判でした。
1945年10月14日、医師で洋画家でもあった宮田重雄が「美術家の節操」と題した文章を朝日新聞に投稿、藤田はじめ、戦争画を描いた画家たちを「ファシズムに便乗し通した人」と呼び、「作家的良心あらば」「謹慎すべき時」であると主張したのです。翌年には、日本美術の民主的な発展と新たな価値の創造を掲げて発足した日本美術会が「自粛を求める」美術家として、藤田嗣治、中村研一、鶴田吾郎、横山大観など、8名の画家を名指しするという出来事が起こりました。同じ頃、藤田の友人で、当時、日本美術会の書記長だった内田巌は藤田のもとを訪れ、美術会での活動自粛を求める通知を言い渡したといいます。
一方、藤田の主張は次のようなものでした―画家とは真の自由愛好家で、軍国主義者であろうはずがない、「戦争発起人でも」「捕虜を虐待した訳でもなく」、国民の義務を果たしただけと考えているが、本当に戦犯として裁かれるのであれば、せめて紙と鉛筆だけを与えてほしい―。こうした言葉には、国民の義務として従軍しつつも、画家として戦争画と向き合った藤田の姿がうかがえます。事実、藤田が残した数々の言葉からは、当時、従軍画家としての使命を担った中で、芸術表現を研磨しようとした意気込みが感じられます。
本展では、終戦80周年を記念した特別企画として、藤田が描いた戦争画をはじめ、戦時下における彼のさまざまな画業を紹介します。当時、従軍画家として第一線で活動を続けた藤田は、何を描こうとしたのか。藤田の言葉も手がかりとしながら、戦時下で制作された数々の作品を丁寧に読み解きます。
みどころ
戦時下において『ホロンバイルの荒鷲』(1941年刊行)と『バルシヤガル草原』(1942年刊行)の装幀と扉絵を手がけた藤田。本展では、その原画である《飛行場》(インク、水彩・紙 制作年不詳)と《輸送隊》(インク、水彩・紙 制作年不詳)が初公開となります。また、同じく当時戦争画を描いていた日本画家 吉岡堅二との合作《貝》(水彩、墨・紙 1942-1944年頃)も初公開となります。。戦局がもっとも厳しい頃、二人は何を思い、この作品を描いたのでしょうか。
作品画像:《輸送隊》 制作年不詳 インク、水彩・紙
従軍画家となった翌年の1939年4月、藤田は突如、パリへと飛び立ちます。しかし、パリの戦局悪化にともない、翌年7月、画家の高野三三男らと共に伏見丸で帰国しました。その後、藤田は戦争画の制作に力を入れていくことになります。本展では、約1年というわずかなパリ滞在期に描かれた作品や、戦時下のパリについて藤田が記録した手帳を公開します。パリのオルドネ―ル通りを描いた《巴里 オルドネ―ル》(1940年 油彩・キャンバス)は当館・初公開作品です。ドイツ軍の侵攻が迫る1940年に描かれたこの作品からは、静まり返ったパリの様子を窺い知ることができます。
作品画像:《巴里 オルドネ―ル》 1940年 油彩・キャンバス
開催概要
展覧会名 | 藤田嗣治 戦争と芸術のはざまで -戦場、銃後の風景、日常を描く― |
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会期 |
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会場 | 軽井沢安東美術館 |
住所 | 389-0104 長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢東43番地10 Google Map |
時間 |
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観覧料 |
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TEL | 0267-42-1230 |
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アクセス | 軽井沢駅(北陸新幹線/しなの鉄道)北口より徒歩8分 |
同時開催
特集展示「藤田嗣治と高野三三男 戦時下における交友の記録 ~高野三三男 旧蔵コレクションより」
会期:7月17日(木)~9月28日(火)
会場:特別展示室
1939年、君代と共にパリに渡った藤田は、画家仲間の高野三三男が住むアトリエの向かいに住居を構え、約一年にわたって共に多くの時間を過ごしました。1940年5月、ドイツ軍の侵攻が迫るパリから逃れるときも、二人は家族とともに伏見丸に乗り込み、帰国しました。道中、二人は似顔絵を描き合ったり、記念写真を撮ったりしながら、約1か月半かけて神戸港に到着します。特集展示では、高野三三男のご息女である耀子氏のご協力のもと、藤田と高野の交友の記録を公開いたします。また帰国した高野が描いた戦争画もあわせてご覧いただきます。
1900年3月30日~1970年8月15日。東京都出身。フランスと日本で活躍したアール・デコ様式の画家。パリのモンパルナスで活躍した画家で、エコール・ド・パリの一人に数えられる。1922年、東京美術学校(現・東京藝術大学)洋画科に入学するも、翌年に起こった関東大震災のため、制作に専念できないことから、1924年に渡仏。渡仏後は個展の開催やサロンへの出品を意欲的に行ない、フランス画壇で認められる日本人画家となった。第二次世界大戦の勃発により、1940年、藤田らとともに帰国。帰国後は一水会に入会。文展や日展等の審査員を歴任し、1954年には現代日本美術展で大衆賞を受賞。1979年、敗血種のために死去。娘はピアニストの高野耀子。
開催中の展覧会
藤田嗣治 猫のいる風景-かたわらの動物たち-
会期:2025年3月6日(木)〜9月28日(日)
https://www.artpr.jp/musee-ando/foujita-paysage-avec-des-chats
広報用画像一覧
《九江 航空隊 整備》 1940年 油彩・キャンバス
© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 B0909
※【紙媒体での掲載】のみ【400文字以内】の紹介記事でご掲載の場合に、ご利用いただけます。 ※WEB媒体でのご掲載にあたっては著作権処理のご対応(著作権料お支払い含む)が必要となります。ご希望の際には、広報お問合せ先までご連絡ください。《巴里オルドネ―ル町》 1940年 油彩・キャンバス
© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 B0909
※【紙媒体での掲載】のみ【400文字以内】の紹介記事でご掲載の場合に、ご利用いただけます。 ※WEB媒体でのご掲載にあたっては著作権処理のご対応(著作権料お支払い含む)が必要となります。ご希望の際には、広報お問合せ先までご連絡ください。「夜なべ仕事」 撮影:土門拳 1941年 土門拳写真美術館蔵
展示室5
展示室5
展示室2 撮影:Takahiro Maruo
展示室3 撮影:Takahiro Maruo
展示室4 撮影:Takahiro Maruo
軽井沢安東美術館 外観
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